さらに詳しい人物プロフィール

 

以下私の壮大なるプロフィールです。
言っておきますが長いので、お時間あるときに読んでやってもいいかなって気になったらどうぞ!

 

徳島県出身です

生まれたのは大阪の吹田市民病院。でも父の仕事の都合で1歳になる前に徳島県に引っ越しました。

以降近距離での引っ越しを繰り返しますが14歳まで徳島県民だったので自分の出身地は徳島県だと思ってます。

 

まだ徳島県の魅力探しで消耗してるの?すだち?阿波踊り?いや月見草的ポジションが徳島の魅力だ!

 

おませさんだった幼稚園時代

 

一人っ子だったことが影響しているかどうかは不明ですが、早熟なおませさんタイプだったようです。
幼稚園児のくせに泥遊びとかに興じるよりはアイドルにキャーキャー言ってたらしい。

 

その頃のアイドルは光GENJIのカー君でした(王道!)母曰く家で歌って踊りまくっていたようです。
カー君見たさに幼稚園児にして明星をおねだりしていたとも母が言っていました。
もちろんローラースケートも買ってもらいました!そのスケートで近所を疾走していたらしい。

でもここでアイドルに熱を上げるという経験はたぶんやりつくしたからか、以降あまりアイドルには興味がなくなってしまいました。

 

両親にとって私は待望の子供だったのでそれはもう目に入れても痛くないというほど可愛がられました。

父は自分が苦労して育った人間でもっと学びたかったのにそれができなかったので娘には同じ思いをさせたくないと考えたようです。

その強い期待を一身に受けて、私は早期教育を一通りやってきました。
公文式、ヤマハ、水泳、あと父が好きだったのでゴルフもやらされましたが、もっとも私が全然できない子だったのでこちらは早々に見限られましたが…

 

父の希望で小学校受験しましたが不合格でした。でもその時の記憶はあんまりありません。

 

優等生を強いられた小学校時代

 

小学生時代はこれといって印象的な記憶はありませんが、たくさん習い事、とりわけ塾などで勉強しました。

小学校3年生という中途半端なタイミングで転校しました。
理由は父がよりよい校区を求めたため!

 

中学校に入るタイミングでもまた引っ越ししています。
理由は…私がお受験に合格することを見据えて!

 

今考えたらもうどんだけプレッシャーかけるねんって感じ。
孟母三遷って言葉がありますが、うちの父もそれに近いものがありました。

 

父の強い希望で小学校に続き中学もお受験しました。結果はまたしても不合格でした。

 

小学校の受験の記憶はあまりないけど、中学受験のことはよく覚えています。
はっきり言って嫌でした。自分が求められてるレベルについていけてないのに毎日夜遅く遠くまでお受験対策塾に通うのも嫌で辞めたかった。

 

でもそれを言えなかったのは「優等生でいないといけない」って気持ちが強くて、言い出せなかったんです。今考えたら小学校6年生なんだからもっと自分の意見を持ちそれを伝えるべきたったよなって思います。

 

学校の勉強はそこそこできる子だったけど、お受験に失敗したってことはやっぱりショックで自分はできない子って言われてる気分でした。

 

 

状況が一変した中学校時代

 

中学受験に失敗したけど先に引っ越してしまってたのでそのまま徳島市内の公立の中学に通います。

 

部活は小学校の時も吹奏楽部だったので、引き続き吹奏楽部に入りました。
ここの学校はマーチングが強く、練習は大変だったけどすごく充実してました。

私も中1の時にマーチングで全国大会に参加できて、今となっては本当にいい思い出。が好機は長く続きませんでした。

 

中2の夏休み大会に向けて練習に励んでいたある日、状況が一変しました。
詳しくは書けませんが父が勤めていた会社が倒産してしまい、もう今の家には住めなくなりました。
平たく言えば夜逃げです。

 

中2の夏休みというまたしても中途半端な時期に誰にもさよならを言えないままお隣の香川県に引っ越すことになりました。転校先の学校は前の学校よりも校則が厳しくて閉鎖的で吹奏楽部も強くなかったからあんまり楽しくなかったです。

 

このときは高松に住んでましたが、高松市内といえどもかなりの端っこ。
だから高校はそこそこ賢くて街中にあるところに入りたかったけど、自分の実力では難しいかなってことで、高松だけどかなり田舎の特に賢くない学校の進学クラスに入りました。

 

 

青春してた高校時代

 

街中のおしゃれな高校には入れなかったけど、高校時代はとにかく楽しかった!

多分みんな勉強ができる学校だと私は潰れていたかもしれないからこの高校に入ったのは正解だったなって思います。

 

3年間クラス替えがなかったので絆が強くて今でも毎年集まるくらいです。
田舎の学校だったからマクドナルドとかお茶する場所も全然なくて放課後たむろしてたのはマルナカとかマルヨシ(四国エリアの方にはわかると思う)とか普通のスーパーでした。

娯楽って言ったらカラオケくらいしかなかったから、人生で1番カラオケに行った時期だったと思います。

 

遊びほうけて楽しい高校生活でしたが大学受験を考える時期が来ました。

 

会社が倒産したあと父はバイトしながら宅建の資格をとり不動産会社に就職し、私が高校3年生の時には自分で会社を起こしました。

暮らし向きはまだ楽でなかったのに、父の私への教育の情熱は消えておらず、高校1年の時からもちろん塾に通っていたし、高校2年の夏は1か月アイルランドに自費留学したし(賢くて交換留学とかじゃないです。本当に自費留学。リッチな家じゃないのに…)

本当に…もう…私への教育費は惜しまない人でした。

 

昔は嫌々ながらも父の言うとおりにすることで優等生を演じていましたが、もう高校生、父の言うことがうざったくて仕方がありませんでした。

人並みに反抗期だったんだと思います。
塾をさぼり続けたことがばれてひっぱたかれて家出もしたし、しょっちゅう喧嘩してました。でも父のことはやっぱり好きだった。

 

喧嘩を繰り返しながらも父と話し合いその末に言われたことは「一生けん命何かに打ち込んでみろ」との言葉。スイッチが入り高校3年生になって本気で勉強しようって思いました。

 

その結果関西大学に合格しましたが、合格がわかった日の前日、大好きだった父が肝臓がんで息を引き取りました。43歳でした。
この辺の話と重複する部分がありますが、私と父について詳しい話はこちらの記事。

私と父のはなし 前編~それぞれの生い立ちから受験まで~

私と父のはなし 後編~受験、父の死そして現在まで~

ちょっと重たい内容です。

 

バイト三昧の大学時代

 

父が亡くなりましたが、いろんな人が助けてくれたおかげで合格した大学に入学することになりました。

 

私と母、当時飼っていたマルチーズの犬、2人と1匹での大阪暮らしが始まりました。経済的に苦しかったのでとにかくバイトばかりしてました。

喫茶店のウェイトレス、パーティーコンパニオン、塾の講師、家庭教師、ショップの搬入スタッフなどいろんなバイトをしたことはありきたりな言い方ですが、人生経験になりました。

 

大学ではイベント系サークルなんかにも入ってみましたが、たぶん私はまだ父が死んでしまったことから精神的に立ち直れていなかったこと、バイトしないと遊べないこと、その辺の気持ちがあったから冷めててノリが合わなくなり1年くらいでやめました。

 

主人と出会う

 

大学2年生、20歳の時に今の主人と出会いました。

出会いは大学で…とか美しく書きたいのですが全然違います。

 

当時私は梅田で友人と飲んでて、飲みすぎてしまいかなりの酩酊状態に陥り電車に乗ったものの全然関係ない駅でカバンを電車に残したまま降りてしまい駅でうろうろ放浪する完全に怪しい子でした。

そこで偶然私に声をかけてくれて家までタクシーで送り届けてくれたのが今の主人です!
タクシーで家に着く間際ようやく記憶が戻り

20歳の私
あなたは誰? 
後の旦那
俺は浜田って名前やけど、家に帰れないっていうから今送ってるよ。
20歳の私
はっ?電車に乗ってたのに 
後の旦那
途中の駅で降りてたみたいやで。財布電車に忘れてるらしいよ。タクシー代払ってあげるから家帰り。
20歳の私
えっ、そんなん悪いわー。後でお金払います! 

よく聞かれるので先に言っておきますがこの時彼とは何もありませんでしたからね!!

後日お金を返すために彼に会い、(私にとっては)はじめてちゃんと喋った時の印象がよくまた会いたいなって気持ちになったので、そこから友達→恋人と発展しお付き合いを続け27歳で結婚しました。

運命ってわからないものです!
結婚式の出会いを紹介する場面では冷や汗ものでした。(旦那はヒーローですが私はね…)

 

将来何になりたいとか特になくて、強いて言うなら彼氏(今の旦那)と結婚できたらそれでよかった、就きたい仕事も特にはありませんでした。

高校時代にいい先生にたくさん巡り合ったので教員の道も一時は考えましたが、教職に必要な単位を途中で落としてしまったのでもういいやってあきらめました。根性なしです。そんな中人並みに就職活動して情報処理系の中小企業に事務職で採用されました。

思えば不遜な人生だった

 

パワハラ上司とお局様に苦しんだOL時代~結婚、妊娠の末退職

 

就職して新人歓迎会で早々にお局様の洗礼を受けたことを今でも覚えてます。

一緒に同期入社した事務職の子がすごく大人しく全然喋らない、かつお酒もあまり飲まない子で、私は彼女に比べればよくしゃべり、よく飲む子だったのでキャラがお局様と被ったのがよくなかったらしいです。

歓迎会の席でべろべろに酔っぱらった彼女が一言

お局様
あんたはなぁ、私とキャラが被るねん!潰すわー!

こわっ((((;゚Д゚))))!
お酒の席とはいえ今ほど神経が図太くなかったから傷つきました。

 

が、私も当時はまだ血の気が多く生意気だったので、仕事をする中で何度かお局様に口答えする→いびられるということが続きました。その辺はいつかまた記事に…。

 

当時の気持ちを振り返って怨念?をライターとして書きました!

女性が多い職場は特に注意!職場イジメ対処法3選

嫌だった出来事は書いて成仏したい!(はあちゅうさんの真似)

 

主人とは20歳からお付き合いして27歳で結婚しました。

結婚後後も同じ会社で勤めました。

このころ職務内容がガラッと変わり、事務員なのにSE的な作業をガンガンさせられ、おまけに上司はパワハラで消耗してました。
早く辞めればいいのに決心がつかず。結局長男を妊娠したことがきっかけで5年務めた会社をやめました。

私を救ってくれた「彼」の誕生日でした

 

長男を出産~パートをしながらの不妊治療~次男出産

長男を2009年に出産しました。

彼が1歳半の時に主人の地元である今の場所に家を建て引っ越しました。
2歳の時に主人が転職したこともあり私は再びパートとして働くことになりました。

働きながら次の子供を待ってましたがなかなか授からず、色々調べたら二人目不妊でした。
1年間みっちり治療し体外受精の末に2013年次男を授かり現在に至ります。

どうする?3人目!3人目について真剣に夫婦で考えてみた話!

2人目不妊ならではの「あるある話」3つ!

 

ライターの仕事をはじめたきっかけ

ライターのお仕事を始めたきっかけは、「書くことが好きだから」結局はこの一言に尽きます。だけどここに至るまでずいぶん時間がかりました。

 

最初に書いた経験、最初の小さな成功体験

記憶がある最初に文章を書いた経験は、父との交換日記です。仕事が忙しく不在がちだってので、父にその日起きたこと、思ったことを伝えたかったのです。母も時々書いていて、家族での交換日記でした。

私が「宿題やった」と言って嘘をついて母に怒られるという、子育てあるある話も生々しく記録されていました。今も残っていて見返すと恥ずかしい限りです。

 

最初の小さな成功体験は小学生の時の読書感想文で表彰されたこと。それから俳句でも表彰されました。なぜ俳句のコンクールに応募したのかは不明、思い出せません。

 

文章を書くことは小さいころから好きだったけど、じゃあそこですぐ「私は物書きになるんだー!」とはなりませんでした。

 

ライターに繋がる過去経験

ライターと名乗り活動するようになったのは2016年6月からなのでつい最近です。このブログはもう少し前から運営していますが、それでも2015年6月からです。

数か月間ライターとしてクラウドソーシングのお仕事をしていた時期もありますが、それ以外特別何か文章を書いて仕事をした経験はありません。

 

ただライティングに繋がる何かが過去にあったとするならば、昔から「熱中すること」が好きだということです。

 

中学で入っていた吹奏楽部は、マーチングの強豪校で全国大会にも参加しました。上下関係が厳しく練習もほぼ毎日ありましたが何かに打ち込むことは楽しい!を最初に感じた瞬間でした。

 

その後は趣味の話ですが、音楽は一度好きになったアーティストは過去のアルバムまでさかのぼり、手に入る雑誌は片っ端から読み漁りました。好きなドラマもシリーズものなら過去作品全部レンタルして全て観て、誰にも頼まれてないのに感想をノートに記した経験もあります。

 

一度だけ熱中が奇跡的に勉強にハマったことがあり、高校生の時世界史が大好きでした。愛読書は世界史の用語集というレベルで熟読、暗記しているちょっと変わった子でした。

 

とにかく昔から何かを好きになると、徹底的に調べて知ってとことん夢中になる「熱中行為」が好きだったのです。
これはライティングの時に徹底的にリサーチすることと繋がっている気がします。

 

ライターを仕事にすると決意したきっかけ

ブログも最初は趣味でした。書いているうちに楽しくなり、ある出来事がきっかけで本気で向き合おうと思いました。

息子が習い事をやめると突然言い出し、私が大激怒したことがありました。この出来事自体は子育てあるある話なのですが、書いて自分の感情と向き合うことにより、自分の何が問題なのかがよくわかりました。

この時の私はAC(アダルトチルドレン)だった自分を息子に重ねて、自分が許されなかったことを簡単に許された息子に八つ当たりしたいたこと、あやうくACを世代間連鎖させようとしていたことに気づきました。一番望んでいないことを無意識にしようとしていることに気づきショックでした。

 

続きの話で、息子に簡単にあきらめてほしくないことを伝えるには私自身が何かを続けて示すことだという答えにたどり着きます。それがきっかけでブログに真剣に向き合い、結果ライター活動をはじめるようになりました。

 

何をもって幸せかは人それぞれですが、私は書くことで自分と向き合い、答えを出して前に進みながら生きることが好きです。

今までの人生も色々ありながらも幸せでした。だけどライターとして仕事をするようになって生きてきた中で一番幸せだと感じているのは、人生で一番よく考えよく書いて答えを出して先に進むことを日常的にしているからだと思います。

 

つまり私にとって書くことはよく生きるための手段、「書くことは生きること」だと気づいたのです。

 

【お仕事情報まとめ】ライターとしてお仕事させていただいてます

 

私ってこんな人です

理屈っぽいことを書きましたが、基本的には良く笑い、よく怒り、すぐ落ち込み、すぐ泣く(もう36歳なのに!)。そしてビールをこよなく愛するアラフォーです。

 

オフ会というか飲み会が大好きで、ブロガーさんに会うとよく「ブログと何か感じが違うよね」って言われます。どう違うんだろうか??自分をブログで出し切れていない証拠なので、これからの課題すね。

 

 

大好きな家族に助けてもらいながらのライター活動。夫も子供も心から大切で感謝しています。

私は母親ですが、その前に女で、そして一人の人間です。主婦であること、ママであることも楽しみつつ、でも私のアイデンティティはそれだけではない。まさに「貪欲な人間」なんです。

 

家族というバックボーンを大事にしつつ好きなことを思いっきり楽しむ人生、そのための自己表現が「文章」だと思っています。

 

 

以上がながーい私のプロフィール。読んでいただいてありがとうございました^^

 

 

公開日:2016年5月14日
最終更新日:2017年11月18日