FBページのエッセイを転載※

【12月18日】「ありのまま」な彼女を思い出して
 

偉そうぶって強がる人が嫌いです。
そういう人はきっと誰かに認めてほしいけど、その人の望むほどは認めてもらえないから強がって虚勢を張り偉そうな態度になるのでしょう。

 

かといって過剰に遜る人も疲れます。
こういう人も誰かに認めてほしいけど、認めてもらえない。全てに遜るうちに自分すらも認められない。誰に対しても遜り続けることでとりあえず認めてくれるかもしれない誰かを探し続けるのでしょう。

 

何事も「過ぎる」とちょっと重たいのかもしれないってことですね。

 

 

私が一緒にいて心地いいと感じる人で共通することは「自分に対する自信」それから「他者へ遜る感覚」このバランスが程よいということです。

 

ディズニーの映画ではありませんが、要するに適度に「ありのまま」が大事なんですよ。
ありのままでいることって簡単なようで一番難しいですから。

 

女性ならわかると思いますが、ありのまま、つまりすっぴんで町中歩けますか?
私はNOですね。
胸を張ってYESと言えればいいけど、正直難しいです。

 

厚化粧は興味が無いけど、化粧をして最大限に美しくある努力をしてそのうえでブスだと言われればそれはもう好みの問題だし、どうしようもない。
けれどきれいでいる努力をせずにすっぴんで街を歩きブスだと言われたらそりゃそうだ、ある程度の化粧もマナーだもんなぁって思う。

 


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心も同じじゃないかな。
本当は誰に対してもフラットでありたいけれど、目上の人に対して敬語を使わないのはやっぱり無礼者だし、自信満々過ぎるくらいの人と接するのはちょっとしんどいなって感じる。

見た目も心もありのままのすっぴんが過ぎると時に相手に失礼かもしれない。だからちょっとだけ化粧をして、ちょっとだけ敬い時に遜ることがほどよい、心地よいと私は感じるようです。
 

私はこれまでどちらかと言えば遜りすぎることが多い人生で、誰にも偉そうにしないことで誰からも嫌われないように生きてきました。
でも自分くらいは信用してあげたいし、できたことはできたと言いたい。遜りすぎる軸から、可能な限りありのままでいたいという中心地点まで戻ってきました。
ここから先は自信過剰の軸へ針が振り切ることなく自信と謙譲のバランスを保ったありのままの人でありつづけたいなぁって思います。
 

 

なんでこんなことを急に言い出し考え出したのかと言うと、面と向かって「あなたって遜りすぎて時にそれはちょっとウザいよ」的な指摘をしてくれた友人がおりました。
具体的に言うと…

 

「テストの点が良かったら。「そうでもないけどね。」じゃなくて「よかった。」のほうがいいよね。
可愛いね。って言われたら。「そんなことないよ。」じゃなくって「ありがとう。」じゃない?
ちょっと遜りすぎてたまにイラッとするわ。」
という何とも辛辣で、ごもっともなことを正直に言ってくれたんです。
これ高校時代の出来事で彼女の言う意味は痛いほどわかっていたけど、実践できるようになったのはわりと最近の話。

 

 

彼女とは今は離れて住んでいてあまり頻繁に連絡は取らないけど、一生のうちで親友と呼べるくらい仲の良い友達です。

そんな彼女が最近お母さんになりました。
誰に対してもフラットで過剰に自分を飾らないありのままの彼女はきっと素敵なママになるんだろうなぁ。
彼女の好きなところを思い出いて文字にしようと思っていたらいつの間にかこんなに長くなってしまった…というわけです。

 

 

 
おしまい

FBページにてこのようなエッセイを書いています。はらぺこかぞくのFBページに「いいね」をいただければ更新情報が届きます。よろしければどうぞ^^


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ABOUTこの記事をかいた人

浜田 綾

ライター/コピーライター/エッセイスト 1981年生まれ 大阪府高槻市在住 企業で10年間ビジネス文書の作成に携わる。 同年7月電子書籍「ペコのプチエッセイ」を出版。 編集者、コピーライターとして活動の幅を拡大中。 幻冬舎・箕輪厚介氏主催の箕輪編集室にて「嫌われ者たちのリレー式コンテンツ会議」の編集リーダーを務める。2017年6月に「コトバノ」という屋号でフリーランスとして開業。