今回は内容の重たい記事かつ長文になります。
もしよかったらおつきあいください。
そろそろバレンタインデーが近づいてきました。
ピンク色やハートだらけの街並みを眺めている分には楽しいのですが、私の心の中だけモノクロで違う景色に見えることが時々あります。
「センター試験」「バレンタイン」これらのキーワードを聞くと毎年胸がきゅうっと苦しくなるのです。
もうあれから16年が経過したというのに。
2000年2月14日に私の父は43歳の若さで亡くなりました。肝臓がんでした。
当時私は18歳、高校3年生で大学受験の真っただ中でした。
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私の父のこと
苦労して育った父
父は愛媛県の今治市生まれで父が7歳の時に妹が生まれたそうですが、そのあとすぐに母親(私の祖母)が亡くなったので、妹は養子に行き(その後父と妹が再開したのは何十年もあとのことだそう)しばらくして父親(私の祖父)が子供のいる女性と再婚したそうです。
この再婚した継母が意地の悪い人で、まるでドラマの中の話じゃないの?と耳を疑いたくなるようなひどい仕打ちを父は受けていたようです。
といっても父から継母の話を聞いたことはなく、親戚のおばさん経由で昔聞きました。
そのおばさん自身も私にこの出来事を話す時は当時の父が不憫に思えたことを思い出し涙ぐんでいました。
そんな辛い生い立ちだった父、普通ならグレたり道を外れてもちっとも不思議ではないのにそうはならず、常に明るく勉強も運動もできリーダー的存在だったようです。
このことは父と同級生のいとこが教えてくれました。
結婚して子ども(私)が生まれる
父は継母のいじめに耐えかねたこと、そして父親が高校3年生の冬に病気(肝硬変)で亡くなったことをきっかけに故郷の愛媛県から大阪に家出し働きながら夜間の大学に通い、数年後私の母に出会い結婚しました。
結婚して5年後私が生まれました。
なかなか子供に恵まれずやっとの思いで授かったと母が話してくれました。
そして父も母も兄弟を作りたい願望があったようで、不妊治療も少ししたようですが母は体が弱く治療をすることで体調を壊したので治療をやめ、かくして私はこの家の一人娘として大事に大事に育てられました。
教育パパとお受験
いわゆる苦労してきた人間だった父は家庭を持つにあたり次のような考えがあったようです。
- 幸せな家庭で育ってこなかったので、自分の家庭は絶対に明るく幸せにしたい
- 勉強したくてもさせてもらえない環境で育ったので子供には十分な教育を受けさせたい
(父は継母が経営する飲食店でずっとただ働きさせられていた)
加えて私は一人っ子、よって父は教育ママならぬ教育パパでした。
私は2,3歳のころから公文式に通いピアノも習い幼稚園も私の住む地域、私の世代では珍しく2年保育の地元の公立ではなくバスで通園する私立の幼稚園に通っていました。
その後は父の強い望みもあり私は小学校受験、中学校受験を経験しました。
結果はどちらも不合格。単純に私の能力が足りなかったのだと思います。
小学校受験のことはあまり記憶にないけど、中学受験のことはよく覚えています。
当時私は徳島市外のとある町に住んでいたけど、学校で私一人だけわざわざ徳島市内のお受験対策塾に通っていて猛勉強を強いられていたこと。だけど勉強についていけなくて塾をやめたかったこと。
父も母も「嫌ならやめていいんだよ」と口では言っていたけど、小6ともなれば親が心の裏ではそんなこと願っていないことくらいわかっていました。
それでも嫌ならやめれば良かったのに意気地のない私はやめたいって言えず、でもズルズル塾は続けていたので当たり前だけど受験には合格しませんでした。
分かってはいたけど「不合格」という事実はひどく落ち込んだし挫折感を味わいました。
そして私は父の期待に応えられなかった、私はだめな奴なんだという気持ちが心のどこかで芽生えました。
父の勤めていた会社が倒産し夜逃げ
楽しい中学生活が一変した出来事
受験に失敗したので私は地元の公立中学に通います。部活は吹奏楽部に入りました。
この学校の吹奏楽部は強く、全国大会に参加するレベルだったのでいわゆる校内カーストの頂点に君臨しており、私は充実した中学校生活をおくっていました。
部活の練習はハードだったし部活内で訳の分からぬ上下関係はあったけど、大会で勝ったら嬉しいし、友達もたくさんできたし初めての彼氏ができたのもこのころでした。
中学2年の夏休み、大会に向けて毎日練習に励んでいたある日―母から急に告げられました。
「パパの会社が倒産したからもうここには住めない。とりあえず荷物を急いでまとめて親戚の○○おばちゃんの家に行こう」
父が勤めていた会社が倒産してしまいました。
父は経営者ではなかったけど、会社の取締役だったようです。
どういう理由でなのかはいまだに詳しく知らないし、知ったところでここには書けないだろうけど、とにかく非常事態だということは子供ながらに伝わりました。
残務作業に追われていた父を残し一足先に私と母は親戚のおばさんの家に厄介になることになりました。
友達にも彼氏にももちろん学校にも誰にも連絡を取ることを許されず私たち一家は突然姿を消しました。そう夜逃げです。
転校したくなくて父に猛反発
会社の残務作業を終えた父に会えたのはそれから1か月ほど後の話。
久しぶりに会った父は私と母と親戚のおばさんに謝った後、こう告げました。
- とにかく元の家に戻るのは危険なので引っ越すこと
- 引っ越した後は今の学校の友達に一切連絡を取らないこと
仕方のない話とはいえ、当時中2の私は猛烈に反発しました。
だって学校も部活も大好きで本当に楽しかったから。
何も言えないまま誰にも連絡を取れなくなり、この先もずっと会えなくてしかも転校までするなんて…
当時の私にとっては学校と部活、友達、彼氏が全てでした。
今の子供と違ってインターネットが当たり前の世界じゃないから身の回りの狭い世界、これが私の全部で、この世界といきなり切断されて、連絡を許されずしかも別な環境に望んでもいないのに行かなければいけないことに大いにキレました。
母の言うことなんて全く聞く耳を持たなかったし、毎日父への怒りで泣いてばかりいました。
いつまでたっても転校を拒む私を見かねた父と二人で話をすることになりました。
私は泣きながら父に思うがまま怒りをぶつけました。
もうどんなことを言ったかは忘れたけど、父を傷つけることをたくさん言ってしまったと思います。
黙ってひとしきり私の話を聞いた後、父はこんなようなことを言いました。
「パパの仕事のせいで○○が学校転校しないといけなくなったり、好きな友達に会えなくなって本当に申し訳ない。全部パパが悪い。だからパパのことは恨んでいいけどママを困らせることはしないでほしい。
こんなこと言っても仕方ないけど…パパがこの会社に入ったときは本当にいい会社で大好きだったんだよ。だから一生懸命働いてきたけど、こんなことになってしまってパパも悲しいんだよ。」
父も泣いていました。父が泣いている姿を見たのはこの時が最初で最後。
納得はできなかったけど、やっぱり父の涙はインパクトが大きかったというか心をゆさぶるものがあり、最終的に私も転校に同意しました。
香川県に引っ越す
夜逃げした我が家は徳島県から隣の香川県に引っ越しました。
転校した先の中学校は吹奏楽部が強くなくて、校内カーストも低かったこと、中2の2学期からという中途半端なタイミングで中学校を転校するということはやっぱり簡単ではなく、最初はなじむのに苦労しました。
だけど少しずつ友達もでき、そんなこんなで中3になりました。
父は失業中でしたが生活のためにラブホテルの受付のバイトをしながら宅建の勉強をしていました。前職は金融系だったので全くの畑違いだったのですが、次は不動産業を志すつもりだったようです。
夜逃げして引っ越したのです。
引っ越し先の家は前のそれとは比べ物にならないくらいボロ家でしたし、お小遣いも当然もらえなくなりました。
そんな状況だったのにも関わらず父の私の教育への情熱は消えておらず、当時の苦しかっただろう家計から費用を捻出してくれ私は家庭教師の先生をつけてもらい地元の公立高校へ進学しました。
最初に望んでいた第一志望の高校ではありませんでした。
その高校はいわゆる進学校でそこに入るには私の成績は微妙であったこと。
とはいえ我が家の家計から考えると公立高校への進学以外選択肢はありえなかったので最終的にはランクを落とし、学校自体は進学校でないけどその中で一クラスだけ進学クラスのある高校を志望しそこへ入学しました。
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一番の青春時代だった高校生活
毎日ただただ楽しかった
高校生活はただただ楽しく泣いたり笑ったりしながらも本当に毎日がキラキラしてて、後で思い返せばあれば一番の青春時代だったんだなぁと思います。
一クラスだけの進学クラスだったので3年間クラス替えはなく担任も、副担任もずっと同じ。
気の合う友達がすぐにでき、彼氏もでき部活はしてなかったけど生徒会活動なんかもちょっとしてて毎日が充実してました。
田舎の学校だったので娯楽といったらカラオケくらいしかなかったから、学校の近くにあるカラオケに友達としょっちゅう行ってました。
このころ父は宅建の試験に一発合格し、地元の不動産会社に就職します。
我が家の暮らし向きも一時のことを思えばずいぶんよくなったように思えました。
教育パパVS私
父は相変わらず教育パパで「大学は○○大学以上でないと県外の大学はダメだ」とかあれこれ私に干渉し、時々喧嘩もしたけど私もそれなりには勉強しました。
だけど必要以上に私の勉強に口出ししてくる父はうっとおしくなり反発してよく塾をさぼったりしていました。それが父にバレて猛烈に叱られ(確かぴっぱたかれたことがあった)、家出したこともありました。
とはいえ真面目で良い子ちゃんの私なのでグレることもできず、家出と言っても可愛いもので
- 1回目は近所のスーパーを徘徊→補導されて家に帰る
- 2回目友人の家に頼み込んで泊めてもらう→その子のお母さんがうちの母に電話して場所を告げたので家出というよりお泊り?
そんな感じだったけど、まぁ人並みに反抗期だったんだと思います。
二度目の家出の後、父と二人で話をしました。
父に言われたことはー
- 今まで何か本気で一生懸命打ち込んで結果を出したことがあるのか?パパにはないように見える。ならこれから本気で勉強してみろ。
- 何かに必死で打ち込んだ経験をしたことのない人間はいざという時にすぐ投げ出しでがんばりがきかない、すぐ諦める。
- そういう人間になってほしくないからとにかく受験勉強をしなさい。
パパへの文句があるならそれから(大学に合格)聞くから。
高校3年生の春のころなので少し遅いくらいですがようやくやる気になり、それ以来私は心を入れ替え塾もさぼらず猛勉強するようになりました。
父と話し合い私は大学の志望先を以下の3つに定めます
- 第一希望 県外の公立大学(センター試験が3科目でよかったので)
- 第二希望 県外の私立大学
- 第三希望 地元の私立大学(すべり止め)
便宜上第一、第二としましたが偏差値的には二の方が上で、だけど私立は費用が高いので話し合いの末こうなりました。
当時の私の実力からしたら1も2どちらも微妙なラインで、どっちかに受かれば万々歳。
どっちもだめだったらすべり止め(という表現はよくないけど)自宅から通える大学に通うことになりました。
父の起業そして検査入院
父はそのころ勤めていた不動産会社をやめ自分の会社を作り独立しました。
娘の私が言うのもなんですが、父は賢く努力家でビジネスセンスのあった人なので会社はすぐに軌道に乗りました。
私も本気で勉強に励み何もかもがうまくいっているかの様にみえたけど、この先大きな試練が待っていました。
高校3年生の12月、父は検査入院をすることになりました。
数か月前から体がだるかったそうです。
だけど自分の会社を起こして間もないころだったので無理をして働いていたようですが、何かがおかしいと思い病院に行ったとのことでした。
自分が入院するというのに父はいたって冷静で自分がこれから受ける手術の説明を私にしてくれました。
大した病気じゃなくて数週間で退院できるから心配しなくていい。
笑顔で私にそう告げました。
でも本当はこの時点で末期の肝臓がんになっておりもう手が付けられなかったのですが、父本人も私も真実を知りませんでした。
長くなるので後編へ続きます。
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