私と父のはなし 後編~受験、現在父の死を乗り越えるまで~

私と父親の話の続きです。前編はこちら↓
私と父のはなし 前編~それぞれの生い立ちから受験まで~

年が明けセンター試験の日がやってきました。
いよいよ受験本番です。


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いくつかの小さな違和感

違和感その1

センター試験当日、私は本来英語と国語、あと世界史しか受験する予定ではありませんでした。親も担任もこのことを了承していました。なのにセンター試験の数日前突然担任の先生に「選択肢を増やすためにも一応5科目受験しときなさい」と言われました。

 

後から聞いた話ですが―母が担任の先生に相談したそうです。

私が希望している大学に合格したとしてもどちらも県外の大学で父親はもうあとどれくらい生きられるかわからないので、大学に通わせてあげられるかわからない。母の相談を受け、とにかく志望校の選択肢を増やすため3科目より5科目ということで担任の先生は私にこうような指示をしたのだと後でわかりました。

 

何も事情を知らない私は、「え~数学なんて受けても点数取れないし!時間の無駄やし!」と憤慨していた記憶があります。何も知らずに自分勝手なものです…今思えばこれが最初の小さな違和感。

 

 違和感その2

センター試験当日、父は病院から激励の電話をしてくれました。
結果は私が思っていたよりもよい結果を残すことができ、自己採点でもかなりいい点数が取れていることが分かりました。

 

父の病室で父と一緒に自己採点しました。

「よくやったなぁ~」と顔をくしゃくしゃにして笑い、大きな手で私の頭を撫でてくれました。

 

「ママ、きっと綾は~大学受かるで!」といい笑っていました。

大満足の私と父。

対してその時の母の何ともいえない表情。

 

さすがに気になり「ママどうしたの?嬉しくないの?」と聞きました。

当然です。娘がセンター試験でいい点数を取ったってこの先大学に行かせられるかもわからない、そもそも自分の夫の命がいつまでもつのかもわからない状態だったのですから。

だけどそんな状態を知らない父は

「ママは綾が大学受かって家を出るのがさみしいんやで~」と無邪気に言い、私もそういうことかと勝手に納得していました。

 

だけど、この母の表情も思い返せば小さな違和感でした。

 

違和感その3

センター試験だけでなく、第二希望の県外の私立大学も地元の会場で受験できたので移動の負担が少なかったので楽でした。

ここでも小さな違和感をまた感じました。

 

自分で言うのもなんだけど、私は父にも母にも大事に大事に育てられ時に過保護か!と思うほどだったのに、人生の正念場である大学受験を控えている私に対する対応があまりにもあっさりしていることが不思議でした。第二希望である私立大学の試験当日の朝父から連絡は無く、母もそっけなく「あ、試験やんね。がんばって」程度で、地元とはいえ結構遠い受験会場へは一人で自転車で行きました。

いつもの父と母ならうざったいくらい激励の言葉をかけ、会場への送り迎えもしてくれたでしょう。まぁ父は入院していたので送迎は無理だったとしても何も連絡がないのが不思議でした。

 

なぜそうなったか…父の病状は数日でかなり悪化していたようでした。

 

 父の病名を母から聞く

動揺する母を見て感じた胸騒ぎ

センター試験が終わり、私立大学の試験も終わった2月のはじめごろ。私は公立大学の2次試験に向けて家で勉強していました。

 

母が父の病院から帰ってきました。
「お帰り」という私の声に応じることもなく2階にさっと走りながら階段を駆け上がる母。

胸騒ぎがしました。

私もそっと2階に上がります。

母は誰かと電話していました。
母は泣いていました。
よくない事とは思いつつもドアの外から聞き耳を立てます。

 

「もうだめみたい。先生にもうだめって言われた」

「あの子にはまだ何も言ってないの。受験中だから」

頭が真っ白になりました。

パパは…ただの検査入院で手術したらすぐによくなるんじゃなかったの??

信じられない、ウソであってほしい、夢であってほしいそう思いながらも、それが事実だとしたら私が感じた小さな違和感の正体が納得できたような気がして、やっぱりこれは夢でない本当のことなんだと確信しました。

電話が終わり部屋を出てきた母と私は鉢合わせました。信じたくないけどすべての状況を一瞬にして悟り私も泣いていました。

 

母からすべてを打ち明けられる

母は私にすべてを打ち明けてくれました。

「本当は最初に入院した時に先生に肝臓がんだって言われた。余命を聞いたけど年単位では言えないといわれた。綾は受験勉強で大事な時期だったからずっと隠してた、ごめんね。

だけどパパの様態が昨日急変してもう本当に長くないみたい。綾にとっても大切なパパだから、まだ2次試験の勉強あると思うけどこれから病院にいってパパのこと一緒に見届けよう。」

 

時に言葉に詰まりながら涙を流しながらそんな風に話をしてくれました。母に話を聞いてもまだ信じられなくて、というより信じたくなかったので事実を受け入れられませんでした。

 

父の最後

容体が急変した父に会う

この出来事が2月の最初でそこから私と母は毎日交代してずっと父に付き添いました。

前に病院に来たのは1月の中旬センター試験が終わった直後でした。その時はしっかりした声で私のことを褒めてくれ、一緒に喜びを分かち合ったのに目の前の父はほとんど意識がありませんでした。父はやせ細り、時々見開く目は黄色く、腹水がたまりお腹だけ異様に膨れていました。

私が呼びかけると何とか目が合うけど言葉を発することはできず、私のことを認識できているかもわかりませんでした。

父はもう長くないんだ、そう思うと涙が止まりませんでした。

 

父は…まだ43歳なのに、不幸な家庭で育って、努力の結果若くして出世した会社も倒産し、苦労してやっと自分の会社を持てた、これからだというのに!
世の中には悪い人間がいくらでもいるのになんで私のパパの命を先に奪おうとするんだろう?

何もかもが憎く非情な仕打ちを受けている気分でした。

 

父が亡くなる

病院に付き添うようになってちょうど2週間ほど、2月14日に父は息を引き取りました。

 

43歳の短い生涯でした。

 

父が死んだ瞬間うわーっと声をあげて泣きました。母も同じでした。

だけど残酷なもので父の死の悲しみに浸っている暇はありませんでした。
母は喪主なので父の葬儀をとりしきらないといけません。
私は出来る限り母をサポートしました。


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 葬儀の日、合格発表の日

14日がお通夜で翌日の15日がお葬式でした。
家に一度帰り支度している時母が思い出しました。

「確か今日は関西大学(第二志望の私立大学)の合格発表じゃなかった?」

そういえばそうだ。
そんなこと当事者である私は忘れていたのに母は覚えていてくれた。
やっぱり母親だ。

「でも聞いたところで今の状況じゃどうにもならないし」という私に対して
「一応確認しときなさい」と母。

地方受験だったので直接見に行くことはできないけど、電話で合否を聞くことができたので聞いてみました。

 

結果は「合格」

 

涙がぽろぽろこぼれてきた。
こぼれ落ちた涙は受話器を持つ手に伝い落ち手が冷たくなるほど涙が止まらなかった。

悔しかったから。

小学校も、中学校も受験で失敗して高校も希望通りにはいかなくて、父に一生けん命必死にやってみろと言われてやっとつかんだ結果なのに…一番聞いてほしい人はもう息をしていないから。
父はもうこの世にはいない。
文句…言えないやん。

 

勉強は自分のためにするもの、そんなことはわかってる、百も承知。
だけど私の場合はやっぱり父にずっと認めてほしかったんだと思う。

もう一度大きな手で頭をなでながら「やったな、よく頑張ったな」って言って欲しかったんだと思う。
だけどもうそれは叶わないから、悔しくて悲しくて泣いた。

 

父の死という事実からどう立ち直ったか

父の死後の私の進路

私はお父さん子でした。勉強に関してはうるさい人でしたが私のことを愛してくれて私のよき理解者でした。

ぶつかることもあったけど父とは高校生になっても仲が良く、ふとした空き時間に一緒にドライブに出かけ好きな音楽を聴きながら学校の他愛のない話をする時間が好きでした。

お風呂はさすがに別でしたが、父のことが好きだったので一緒の布団で寝ることも時々ありました。

そんな父が突然亡くなったのです。
心にぽっかり大きな穴が開きました。

その後公立の大学の2次試験を受けましたが結果は不合格でした。合格したのは県外(大阪)の私立大と地元の私立大、これからどうすればいいのか母と考えました。

話し合いの末、私はたくさんの人の助けもあって大阪の関西大学に進学することになりました。

最初は母と離れて生活する予定でしたが、2重の生活は生活費がかさむこと、父の死後なのでお互いに心細いこともあり母とともに一緒に引っ越すことにしました。母が当時勤めていた会社の取り計らいで母を大阪の支店に転勤させてくれたのです。こうして私と母、それから当時は犬を飼っていたので二人と1匹で大阪に出てきました。

 

「父の死」を心の引き出しにしまい込む

新しい土地で暮らし大学生活が始まりました。地元を離れ父の死を知る人はいなかったので感傷に浸ることなく新しい生活になれるのに必死でした。

じっとしていたらいつまでも泣いていそうだったので、バイトして勉強して毎日忙しく過ごすことで父のことを考えないようにしていました。それしか父の死から立ち直る方法が思いつかなかったのです。

 

父が死んでしまった悲しい記憶は心の引き出しの奥にそっとしまいこみました。
そうでないと涙があふれてしまうから。
そうやって過ごしているうちに少しずつ悲しみは薄れていったように思えました。

 

いくつか恋愛して、主人に出会い、大学を卒業し、就職して結婚し、仕事をやめ長男、次男を出産し今の私がいます。

今でも父の記憶はやっぱり心の引き出しの奥にしまいこんだままです。こうして父のことを思い出すため文書に起こすために久しぶりに父のことを思い出しましたが、やっぱり涙がとまりませんでした。

 

大切な人の死は16年経っても完全に立ち直ることなんてできないんです。

私も親になり長男が時々父のことについて聞いてきます。
(家には仏壇があり父の遺影があるのです。)

「じいじはどんなひとだったの?」とか
「ママはじいじに怒られた?」とか(ええ怒られましたとも!半端ない教育パパでしたから!)

そのたびに泣かないように心の引き出しをそ~っと開け、彼の答えに応えるのですが、悲しいことに父の記憶は年月を経るにつれて薄くなっていることに気づきました。ずっと引き出しにしまったままの記憶は少しずつ形を失っているように感じたのです。

もっと月日が流れ私が年を取れば、父の生きた証である私の記憶がなくなる日がくるかもしれません。
大好きな父のことを忘れてしまうなんてこんな悲しいことはありません。

父のことを思い出し記事にすることで、父の死と向き合い忘れないようにしようと思ったことがきっかけでこの記事は生まれました。

これからは父の命日と父の誕生日くらいは涙がこぼれようが父のことを思い出し、思い出に浸ろうと決めました。
父の好きだったサザンオールスターズの曲を聞いて、いつも愛飲していたキリンのラガービールを飲みながら!

 

父の死を乗り越え、残された家族にできること

父の死により私と母は残された家族となりました。

私も母も特別健康に気を配るタイプではありませんでしたが、父が病気で死んだことにより人一倍健康志向になりました。

健康診断もきちんと受けるようになりました。
父は会社で勤めていたころは欠かさず健康診断を受けていて異常はありませんでした。
だけど自分で会社を起こした年だけ健康診断に行っていませんでした。

運命は皮肉なものでたったの1度だけ健康診断を受診しなかった年に発病し、病気の発見が遅れてしまい、気づいた時には手遅れでした。

父は末期の肝臓がんで若さゆえ進行が早く入院して3か月たたないうちになくなってしまいました。

志半ばで死んだ父は無念だったと思います。
だけど残された家族も辛いです。

残された母の悲しみを思うと今でも胸が痛いです。
私は父の代わりはできないけど、母のこれからの人生を一緒に過ごし彼女の支えになると決めました。

その一つの形として同じ家で一緒に住んでいます。
長男なのに私の母と同居してくれた主人、そしてそれを快く了承してくれた主人の両親には心から感謝の気持ちでいっぱいです。

 

まとめ

長々と私と父の生い立ち、父の話をしましたが私が言いたいことは、

 

大切な家族を悲しませないために、できることから健康には気を付けた方がいいということ

健康診断には欠かさず絶対に行った方がいいということ

「生きていること」以上に大切なことなんて何もないっていうこと

 

父は自らの命を懸けて「生きることのの大切さ」を教えてくれました。

自分が死んでしまったら…家族は、あなたの大切な人は悲しみます。
残される方の気持ちを想像し、そうならないために自分のことを大切にしてほしい、それが私の願いです。

 

おしまい


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ABOUTこの記事をかいた人

浜田 綾

ライター/コピーライター/エッセイスト 1981年生まれ 大阪府高槻市在住 企業で10年間ビジネス文書の作成に携わる。 同年7月電子書籍「ペコのプチエッセイ」を出版。 編集者、コピーライターとして活動の幅を拡大中。 幻冬舎・箕輪厚介氏主催の箕輪編集室にて「嫌われ者たちのリレー式コンテンツ会議」の編集リーダーを務める。2017年6月に「コトバノ」という屋号でフリーランスとして開業。